東尋坊を後にして次に向ったところは、かつて北前船の寄港地として栄えた三国湊である。今では鄙びた漁村なのではないか、などと想像していたらそれは大きなまちがいだった。
岸名家は、代々材木商を営んだ三国港の豪商
こういう(どういう?)家の造りが、「かぐら建て町屋」なのだとか。正面は平入でいて二階建て、そして奥の建物が切妻造りで…奥が深い。この「かぐら建て町屋」は三国湊独特のもののようだ。屋根の構造が複雑になるし、雨樋の始末が難しいようだ。なので…建築費も高くつく。
「かぐら建て」の語源はというと、地元の人の話では建物を正面から見ると…神楽の顔に似ている → かぐら → かぐら建てという説もあるようなのだ。
丹波篠山には妻入り商家群があるけど、三国湊は平入り商家群ですね。
笏谷石とは、福井市の足羽山一帯で採掘された薄青い色の凝灰岩である。現在は採掘されていない幻の石とも。この石は濡れるとよりいっそう青みが増し、美しくなるという。どうりで三国の町屋では玄関先や軒下、それに屋根最上部の大棟には棟瓦として用いられているわけだ。
笏谷石は北前船で遠く北海道まで運ばれていたという。加賀橋本でも至る所で笏谷石を見た覚えがある。
豪商のわりには庭はそう広くはない。加賀橋本あたりの廻船問屋とくらべると、規模が小さい庭である。三国の町を歩いても、庭に大木は見当たらなかった。
それだけ三国は、都会化していて、利用できる土地が少なかったという事なのだろうか。
二階の座敷では、句会が開かれていた。
そういえば、芭蕉の有名な『おくのほそ道』西村本が発見されたのは、敦賀だったような覚えがある。芭蕉は推敲に推敲を重ねた最終稿は、能書家に頼んで句集(紀行文)をつくっていたようだ。芭蕉の兄へ贈ったその本が人から人に渡り、北陸は俳諧が盛んな土地でもあったようだし、きっと資産家で有能なコレクター(西村家)に渡ったんだね。
軒下の石は笏谷石。
通りを歩いているとあちこちに山車藏を見かけた。
三国祭り(日本遺産)にはたくさんの山車が町内を飾る事だろう。
北前船の廻船業で栄えた街の一つ、越前三国港。当時一航海すると、船主には、今のお金で一億円相当の収入があったとか。でも、船で働いていた船乗りは、危険の多い航海のわりには、収入は大した事なかったようだ。
明治に入り、運輸は船から鉄道など、陸上の輸送に変わり、海運業は右肩下がりになった。そこで当地の海運業の豪商でならした森田家は、銀行業などに転身した。その後福井銀行と合併し、この建物は、近年まで福井銀行三国支店として使われていた。現在内部は無料で一般公開されているのがありがたい。
建物の竣工は大正9年(1920)。
越前にも鏝絵の名人がいた。
…西洋の意匠にありそうだ。
ここにも笏谷石がある。
わずか一二時間の遊山だった。こんなに見どころのある町とは知らなんだ…。もっともっと見学したいところ(三国神社、高見順生家、龍翔博物館など)があったけど、それはまた今度。港がすぐ側にあり、お魚の美味しいところでした。最後に昼食で食べたものを載せて終りますハイ。
魚市場のそばで食べた海鮮丼