来年の三月には北陸新幹線が敦賀まで延伸するという。その前に、一度も福井には行ったことがないという連れ合いと共に、みたび永平寺や二度目となる東尋坊を訪ねてみようか、などと考えて小さな旅を企てた。
さらに『独楽吟』などすっと心に入る素敵な歌を詠んでいる橘 曙覧(たちばなのあけみ)、をもっと知りたいと考えて福井市を訪れたのだった。
永平寺の変りよう
永平寺へ行くには、福井駅東口にある「えちぜん鉄道」バスチケット売場で、自動券売機からチケットを購入することから始まる。バス内では購入できないのだ。
三十年ぶりに訪れた永平寺門前は様変わりのような気がした。土産物店の建物などはどれも綺麗になったような気がする。鉄道は廃線になったようで、駅舎だけが残されていた。
さらに心持ち感じたことは、四十年前に初めて訪れた際の厳粛な道場の雰囲気がうすれていたような気がしたのだ。
いったい何を求めて、道元禅師はこの地に道場を開いたのだろうか。一説には、都の建仁寺が堕落したからだ、という話も聞いた。波多野義重公の要請があったからだとも。
和辻哲郎は、その著『日本精神史研究』の中で「沙門道元」という章を設けている。『枕草紙』や『源氏物語』のことなどは『日本精神史研究』から学ぶことは沢山あった。なかなかいいツッコミどころがあって和辻哲郎なかなかやるな、なんて思ったりもした(いつもの妄想です)。でも肝心な『沙門道元』は難しくってほとんど読んでないに等しい。まだあの世に行くまでは少し間がありそうなので、これから読んでみるのも遅くはないかなあ(^^;)。
建仁寺の僧侶の変りよう
「痴愚なる人は財宝を貯え瞋恚を抱く。僧侶にさえもそれがある。自分が初めて建仁寺に入った時に見たのと後七、八年を経て見たのとの間の著しい相違もまたそれにほかならない。寺の寮々に塗籠を置いて、おのおの器物を持ち、美服を好み、財物を貯え、放逸の言語にふける、そうして問訊礼拝等は衰微している。
恐らくは余所もそうであろう。本来仏法者は衣盂のほかに何ら財宝を持ってはならないのである。何を置くために塗籠を備えるのか、人に隱すほどの物ならば持たぬがいい。」(随聞記)
七堂伽藍と修行
道元禅師によれば直下承当(?)の道は、参師問法と工夫坐禅にあるという。そして伽藍は僧侶が修行をする清浄な場所なのだとか。中でも僧堂、東司(トイレ)、浴室は修行をする上で大切な場所とされる。排泄もお風呂にも作法があるというのだから、わたしには務まらないなあ。
そして参師問法では、頭の回転が良くないとね…。工夫坐禅では居眠りばかり…。どっちも無理だなあ。
福井駅からタクシーに乗込み、
橘 曙覧 記念文学館へと行き先を告げる。
すると運転手は知らないのか、無言で車を降りて…
他のタクシー運転手数名に所を訊いて回ったようだ。
誰も知らなかったみたい(笑えない)。
戻ってきたので、「愛宕坂へ」と詳しく告げた。
藁屋は上の写真のようには、整ってはいなかったみたいだけれど。
橘 曙覧(1812-1868)は幕末の福井に生れた歌人、国学者。清貧の歌人といわれる曙覧。生活にはいっこうに無頓着だったようで、食べるものにも事欠き、子どもたちにも大変な思いさせたようだ。
藩士や弟子などから生活の支援を受けていたことが、歌からも読み取れる。
たのしみはあき米びつに米いでき今ひと月はよしといふとき
たのしみはまれに魚(いを)煮て児等皆(こらみな)がうましうましといひて食ふ時
そんな橘 曙覧を知ったのは、半年前に柳田国男(それとも河上肇だったかな)の文章を読んだことによる。国男の父親も、 曙覧のような性格の学者だったみたいで、どこかひかれるものがあったのかも知れない。
きのふまで吾が衣手にとりすがり父よ父よといひてしものを
三女健子を天然痘で失った際に詠んだ歌だろうか。
たのしみは三人(みたり)の児どもすくすくと大きくなれる姿みる時
たのしみは朝おきいでて昨日まで無かりし花の咲ける見る時