chikusai diary

昭和という時代に どこででも見ることができた風景を投稿しています。

南天荘主人 ー 歌人の井上通泰とその弟の民俗学者 - 柳田国男のことなど…

 

南 天



寒い季節に京都市内を歩いていると、彼方此方の庭や道路との境に、南天の赤い実がたくさん付いているのが目につく。南天南天と口ずさんでいると南天荘(雅号)という明治時代に活躍した歌人の名を思いだす。数年前にひょんなことから南天荘主人・井上通泰氏の本を手に入れて読んだことがある。その一節に…


" 私達は男ばかりの八人兄弟で、女の姉妹は一人も無い。次男と四男五男とは共に夭死したので、残って居るのは五人である。長兄鼎は家を継いで松岡を名乗り、今千葉県で医者をして居る。此兄の修行時代は一家が最も窮迫して居た時なので、家からは全く補助を受けずして東京大学医学部の別科に入って医師となったのである。後に父の後を継いでからは弟達を育てたり教育したりする為めに、自分の一生を犠牲にして惜しまなかった人である。

私は三男で、十二の歳に親戚の井上家に養子に行ったのである。柳田国男は六男で、彼れも法科大学を出た後に柳田家を継いだ。七男は松岡静雄と云って今は海軍大佐になって居る。画を描く松岡輝夫(映丘)は一番末である。"





井上通泰氏(以下敬称は省略します)は旧姓松岡通泰、今の兵庫県で生まれた。父は姫路藩儒者であった。その父は「一生読書に没頭し了った人で、世間の事は何も知らなかった。死ぬまで銭の勘定が出来なかった」と通泰は伝える。

通泰は眼科医であるが、歌人としても知られており、山県有朋公に「歌の講釈を…」と乞われて、時には歌の添削もしたという。その甲斐あってか、明治天皇から「山県、お前の歌は近来大変巧くなった」と褒められたという話が残されている。

山県有朋公に接していて「普通に人は、年が寄ると次第に歌も古くなるのが常であるが、公は其の反対で、年と共に新しくなって行った。一見頑迷なやうで、世人からは殆どさう思はれて居るが、遠方から観るのと近くで観るのとは大変な違いで、公は実に新思想を最もよく研究した人であった。」という。


     君のため世のためつくす誠のみ老いたる身にも猶のこりけり

                                  山県有朋




哲学の道



柳田国男の歌は、ずば抜けて巧かった
通泰の弟には民俗学で知られた柳田国男がいる。通泰によれば「国男は子供の時から何事でも好く出来て、兄弟中で一番怜悧であった。」「柳田と私は九つ違ひで、柳田の下に静雄、静雄の下に輝夫、つまり松岡映丘がゐる。」


「柳田は乱暴なことは少しもしなかったが、いたづらは随分やったものだ。しかも、国男のいたづらには、必ずどこかしら創作的なところがあって、何といふか、才気煥発で実に奇想天外なものが多かった…」ようで、東京へ連れて来て十三歳を過ぎた頃、「何の気なしに、国男の机の上に置いてある半紙を半分にした日本紙の仮綴りを手にとって見ると"湌眼録"と表紙に書いてある。中は全部漢文で、はてなと思って読んで見ると、それが全部、前にいったような奇想天外ないたづらをして、母に叱られたこと、つまりお眼玉を頂戴した日記なのだ。それを湌眼録と銘したのも面白いが、十三四で、こんなことをする子供でもあった。」


また…「たしか(国男が)十六七の時だったと思ふ、あれの歌仲間がいつも四五人集まってゐたが、そのうちで今でも私が憶えてゐるのは田山花袋だけだ。…私の見るところでは、その仲間の中では、やはり何といっても国男の歌が一番ものになってゐた。柳田の次が田山(花袋)の順…」


「その時分に国男の書きためた歌が五六十もあったと思ふが、三浦千春といふ歌詠み ― 当時相当な人だったが、その人が私のところへ遊びに来て、何かのついでに、私の机の上に置いてあった国男の歌本を見て、"それは何だ" といふ。そこで、"これは古本屋にあったものだが、詠手は知れぬ、いい歌だから浄書させて置いたものだ" といって見せてやった。すると一句一句非常に感心して "こりゃ、立派なものだ。何にしても、これだけの歌をのこしてゐながら詠手が分らぬとは惜しいことだ" といって、ひどく感心してゐるのだ。内心をかしくて堪らなかったが、実は玄関先にゐる、あの弟の作だといって大笑ひをした事があった。が、とにかく、そのころから国男の歌はズバぬけたものがあったやうだ。」


それでは、柳田国男から見た兄・井上通泰の歌の評価はというと…う~ん、あんまりかんばしくないです。
それはさておき、今日の本題に入りましょう(すでに予定の紙数は尽きたか?)。国男は子どもの頃に茨城県布川の長兄のもとに世話になっていました。国元の兵庫県では大所帯の貧乏暮らしでしたが、医師である長兄のところでは、少しはましな生活が出来、後には両親もこちらへ引っ越してきます。


さて驚いたことに布川ではどの家でも子どもは二人(男と女、または女と男)と決まっていたようです。
八人兄弟の国男はそのことに驚いたようです。今でいう計画出産ではなく、生まれてきた赤子を、食い扶持を減らすために調節していたのですね。

まだ十三歳の子どもだった国男でしたが、「約二年間を過ごした利根川べりの生活で、私の印象に最も強く印象に残っているのは、あの河畔に地蔵堂があり、誰が奉納したものであろうか、堂の右手に一枚の彩色された絵馬が掛けてあったことである。その図柄は、産褥の女が鉢巻を締めて生まれたばかりの嬰児を抑えつけているという悲惨なものであった。障子にその女の影絵が映り、それには角が生えている。その傍に地蔵様が立って泣いているというその意味を、私は子供心に理解し、寒いような心になった…」


柳田国男は飢饉の惨事の経験がある。その経験が彼を「民俗学の研究に導いた一つの動機ともいえるのであって、飢饉を絶滅しなければならないという気持が、私をこの学問にかり立て、かつ農務省に入らせる機にもなったのであった。」と『故郷70年』の中で語っている。



柳田国男、そして思いは柳田に日本民俗学の祖(おや)と言わしめた
江戸時代の本草学者・医師・紀行作家である菅江真澄へ飛ぶ…。



【参考図書】
・「嗚呼我父母」
・「歌人としての含雪公」
・「故郷70年」