chikusai diary

昭和という時代に どこででも見ることができた風景を投稿しています。

吉田松陰や菅江真澄も訪れた本州最果ての土地 小泊?

 

 

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小泊から隠れ里下前、そして権現崎へ

小泊村は遠かった!

昔日の小泊村は遠かった。竜飛崎も遠かったが、むしろ小泊の方がずっ

と遠い。東京からの話である。今では新幹線の駅がそう遠くない所にで

きたのでだいぶ所用時間は短くなった。


わたしは小泊へは三度訪れている。旅館などありそうもない漁村と思っ

ていたのだが、たどり着いてみると村のメインストリートに旅館が一

軒、港の方に民宿が二軒あった覚えがある。旅館の方には二度宿泊して

いる。部屋にはテレビどころかラジオさえ無かった。廊下に二三年前の

週刊誌が本箱に並んでいたので退屈しのぎにそれを読んだ。二度目に宿

泊したときも、再びその本を読んだ。三度目の宿泊は、当日結婚式があ

るというので宿泊を断られたので、そこから少し離れたところの民宿に

泊まった(昔も今も行き当たりばったりの旅である)。

期待して行った小泊村だった。ところがいざ写真を撮影しようと港の夜

景を眺めても、村内をあちこち歩いても、どうにも撮影意欲が湧かなか

った。撮影した写真といえば、上の写真が唯一枚残っているだけである。

吉田松陰も竜飛へ向うのに歩いたであろう海沿いの道である。

そして津軽平野の北の端 小泊を南下して写真撮影をつづけた。


泊港は辺境の地にある港としては、なかなか立派な港である。かつて

は木材などの運搬で大いに繁栄したようだ。天候が悪化したときには、

少々大きな船でも避難できる港であった。外国の船も立ち寄ったことは

疑いがない。





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小泊岬

 

 

 

権現崎(小泊岬)から北海道を望む
長州藩を脱藩した吉田松陰は、宮部鼎蔵とともに弘前を通って小泊に着
き、そして蝦夷地をより近くで見るために竜飛崎に向った。嘉永五年
(1852) 松陰 二十二歳のときである。奇しくもわたしも同じ年齢だった?

徒歩でここまで来たのであるから、相当難渋したことであろう。吉田松陰

は旅の途中で “宿敵” 会津藩にも寄っているようだ。

 

 

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岬の名は権現崎(小泊岬)といい、山の陰には小泊その奥には津軽半島

の先端・竜飛崎が見える。どういうルートでこんな恐ろしい場所に行っ

たのか 半世紀たった今、まったく覚えていない。

 

 

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ガスが出てきた

 

 

 

 

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下前の家々



隠れ里-下前

小泊を訪れた菅江真澄(江戸時代の紀行作家、本草家、歌人)は十三湖

を通り鰺ヶ沢へ向う途中、一人の男が道をそれ 山中に入っていったこと

に興味をもち後をつけていった。着いたところが隠れ里と言われていた

「下前」だった。そして集落の長に頼んで滞在を許してもらった(さす

がの白洲正子もこの地を訪れてはいないようだ)。


わたしは菅江真澄が小泊からの帰途、下前に寄っていたことを知らなか

った。岬に行こうとして、海岸線をどこまでも歩いていったら行き止ま

りの集落が下前であった。その集落が江戸時代には「隠れ里」だったと

は !?  そう言えば独特の雰囲気のある集落だった。  

 

 

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下前の港

 

 

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下前の西の外れ

 


菅江真澄のこと

江戸時代 蝦夷地へ渡るには相当困難があったようだ。舟での危険もある

が、当時松前藩では港に番所を設け、労働者、商人以外の者は上陸を許

さないという制度があった。


当然菅江真澄のような得体の知れない者は上陸できないはずなのだが、

数年まって機会を窺い蝦夷地へ渡った。商人や医師たちの計らいもあり

前藩主から上陸を許された。このときは和歌が縁をとりもったようだ。

芸は身を助くということか?


三河出身の菅江真澄はなぜそうまでして蝦夷地に関心を持ったのだろう

か。真澄は蝦夷地、陸奥などを五十年ちかく放浪し、文政十二年

(1829)七十六歳で秋田角館で病没した。 柳田国男からは日本民俗学

祖といわれている。著書多数は佐竹藩に寄贈されていたので、いまで

東洋文庫」で主要な著作を読むことができる。翻訳者 内田武志氏に

謝である。


※一般には菅江真澄の名はあまり知られていないようだが、青森県や秋

田県では松尾芭蕉より有名、と言っても過言ではない。とりわけ秋田県

を歩けば、犬も歩けば何とやらではないが、少し歩けば菅江真澄の碑が

あるのだ。一昨年の夏、男鹿半島を歩いてみて これには驚いた!

 

 

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