chikusai diary

昭和という時代に どこででも見ることができた風景を投稿しています。

下北半島の旅 恐山を歩く

 

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霊場恐山


正面に見える建物が地蔵殿。宗派は意外にも禅宗曹洞宗)である。 
田名部駅前からバスに乗り、霊場恐山に着いたのは昼頃だったろうか。
宿坊で宿泊の申し込みを済ませてから、霊場と宇曽利湖の周囲を散策
したことを覚えている。その日は風の強い日で、宇曽利湖は波立って
おり、荒涼とした雰囲気をより一層際立たせていた。


 

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奥に見える建物は地蔵殿 境内の至る所から蒸気が噴出している


恐山菩提寺は慈覚大師円仁の開基と伝えられ、現在は曹洞宗である。この地は信仰の地であるが、古くからの湯治場でもあるのだ。江戸時代には五つの源泉があり、北前船の船乗りたちが湯治していたことが記録に残っている。 

 

慈覚大師 円仁とは?
「旅行家としてのマルコ・ポーロの名声は世界中にとどろいているが、慈覚大師円仁の名前は、彼の故国日本でさえもわずかに学者の間に知られているにすぎない。」

この言葉は元駐日大使ライシャワー氏が著した『円仁 現代中国への旅 ― 「入唐求法巡礼行記」の研究』で述べられている。

円仁は最後の遣唐使として838年から847年まで入唐し、“僧俗を問わず学問や技術の特殊な領域を研究するために中国に渡った”のである(入唐した当時、円仁は45歳であった)。そして五台山などを巡礼し、苦難の末長安へたどり着いたという。

円仁が開基にかかわった寺院数
帰国後は、立石寺瑞巌寺中尊寺など東北では331寺余、関東に209寺を開基したというから、とても常人とは思えない行動力である。そのほか蝦夷地にも開基伝承が存在する。入唐以前の若いころにも東北を修行して歩いた、という説もあるので年代を確定することは学者にまかせ「縁起」を信じよう。

最後の遣唐使
遣唐使のことを調べていると、今までの遣唐使の概念が覆された。というのは、遣唐使使節団 )は船一隻か二隻で編成され(初期の頃はそうだった)、せいぜい一隻に数十人が乗っているのだろう、と考えていた。ところが最後の遣唐使を調べていると 、
遣唐使の構成は四隻(帰国船は九隻)
からなり、「一人の大使、一人の副使、おそらく四隻のそれぞれに一人ずつ配属されたであろうところの四人の行政官(判官)、および六人の秘書官(録事)からなる。

(途中略)録事と準録事に次ぐ役職は船管理者(知乗船事)であった。この称号の文字通りの意味は“船の荷物の管理人”であり、彼らが荷物や貢ぎ物について責任を持った役職であったことがうかがわれる。

… 知乗船事 についてもう一つの面白いことは、彼らのうち三人まで大陸系の人物であり、それ故に、多分ある特殊な大陸の地理に関する知識を持っていたと思われる。」
ライシャワー著『円仁 現代中国への旅 「入唐求法巡礼行記」の研究』より引用


さらに各船にはそれぞれ一人の船指揮官がおり(使節団の高位の人物)、船の一切の指揮権および人事権を握っていた。実際には、艇長(船師)と艇長代理(準船師)それぞれの船を動かす船長だったようである。

さらにほかのメンバーには書記官、通訳(三人の朝鮮人)、武官、僧、大工、水手、歴史研究生、医師、天文留学生、陰陽師、音楽家、画師など多くの研究者、芸術家が乗船していたのである。その数はといえば、総数650余人、一隻あたり160余人が乗ってい
たことになる(想像していたより多人数である)。

船が無傷で大陸に上陸できるのは稀で、大概難破同然で、唐の船の助けを借りて上陸している。上陸出来たらできたで、次々に難題が持ち上がり遅々として長安には進めない。遣唐使とは、いわば招かざる客なのであった。はたして、そのうち無事に帰国できた者はいったい幾人いたであろうか。

遣唐使について調べたければ、円仁著『 入唐求法巡礼行記』、ライシャワー著『 円仁 現代中国への旅 ― 「入唐求法巡礼行記」の研究』が参考になる。



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卒塔婆の山



菅江真澄のこと

江戸時代の “旅行作家”にして本草家、医師、学者と言ってもよいほどの
人に菅江真澄という人がいた。菅江真澄蝦夷地からの帰りに二年以上
下北半島に滞在(寛政四年・五年ー1792・93)し各地を見て回っている。
恐山にも三度訪れ、一度は例大祭にも訪れていてその時のことを次のよ
うに日記に書いている。


卒塔婆塚の前には、いかめしい棚を造り、それに薄を刈って敷き、高い
イタヤの木を二本、左右にたてて、カラアオイ、ナデシコオミナエシ
アジサイ…などの草花をあげて、七の仏の幡をかけて、あか水を供えて
ある。

御堂から柾仏といって、仏名を書いてもらったうすいそぎ板を、一本六文
の銭でもとめ、老若男女、手ごとに持ってきてこの棚におき、水をくんで
あげ、「ああはかないものだ。わが愛する花とみていた孫子よ、こうなっ
てしまったか、わが兄弟、妻子よ」と、あまたの亡き魂呼びになき叫ぶ声、
念仏の声が山にこたえ、こだまにひびいている。

小さい袋の中からうちまき(散米)をだして、水をそそいだ女が「わが子
がさいの河原にいるならば、いま一目見せて」とうち嘆いて、しぼんだナ
デシコをこの棚の上においた・・・菅江真澄遊覧記』より引用


例大祭の間は日が暮れても大勢の人々が群れ歩き、とても賑やかで建物内
は人で満ちあふれ寝るところもなかったと伝える。

現代の例大祭では、イタコがテントを張り、“口寄せ”という、亡き人の魂
を現世に呼出しては語り聞かせるという。江戸時代にはそのような光景を
見ることは無く、戦後に そのような風習が始まったようである。

小説家幸田露伴は明治二十年代に例大祭に訪れ、その時の事を『易心後語』
という旅行記に詳しく書いているが、そこにイタコの記述はない。

 

※意外なことに恐山は霊場であるが、四つの源泉を抱える保養施設でも
あったのだ。下北半島に暮らす人々に限らず、北前船で田名部に寄港し
た船乗りたちの疲れを癒す温泉地なのだった。

 


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後生車

鉄の車輪を手で回し、ピタッと止まれば極楽へ、止まり掛けて一瞬反対方向
へ回れば地獄へ落ちると伝わる。
※五十年ほど前のネガなので画像が一部消滅している。



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早朝の賽の河原 まるで月面のようだ

 

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賽の河原

 

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宇曽利湖を三途の川に見立てている

 

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風になびく葦が怪しげな雰囲気を醸し出している

 

恐山と言う おどろおどろしい名で呼ばれているが、 元はアイヌ語でウソリ(窪地)と言っていたのが「宇曽利」と当字され、後に「恐れ」となまったものだという。この辺り一帯は火山活動で出来たカルデラ湖で現在も火山活動の様相を呈している。

 

下北半島というと本州最北の地・辺境というイメージがある。一面真実ではあるが、海路を利用すれば交通の利便はそう悪いとは言えないのではないだろうか。菅江真澄下北半島を巡った時代は、北前船の寄港地として大間、佐井、脇野沢、田名部などの幾つかの港があり、交易で裕福な人々がいたことがその日記から読取れる。上方の情報や文化も北前船が持ち込んでいた。

江戸時代、下北半島の主な産業は漁業、林業であるが、忘れてならないことは、南部馬の産地であることだ。半島には「牧」と呼ばれる放牧地が幾つもあり、足腰のしっかりした農用馬、軍馬を産出していた。積雪期はどうしていたかと言うと、親馬は放牧したままなので飼料となる草はろくに無いので、磯に行き、海藻を食べるという。そういう育て方の方が強い馬になるというのだ。

撮影年:1971年


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