chikusai diary

昭和という時代に どこででも見ることができた風景を投稿しています。

九艘泊への道(世界最北限の猿に会う?)

 

漁から帰ってきたのだろうか。世界最北限に生息するニホンザルを観察
するため、脇野沢から九艘泊へ歩いて向かう途中に見かけた光景である。
遠くに見える山並みは津軽半島である。

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脇野沢帰帆



本州最果ての土地

十代のころ、二度ほど下北半島を巡ったことがある。仕事をしてお金が貯まると東北、それも下北半島津軽半島を主に巡った。都合二年余り一年を通して青森県各地を旅をしていたことになる(仕事で得たお金はほとんど旅費と写真代に消えた)。それほどまでにわたしを東北に駆り立てたものは何だったのだろうか。

当時住んでいた東京からは本州最果ての地は遠かった。上野駅から東北本線廻りの「八甲田」、常磐線廻りの「十和田」共に夜行(急行)だった。常磐線廻りの方が青森駅までは一時間短かった覚えがある。それでも青森駅までは優に八時間はかかったのではないだろうか(青森駅から目的地までは また数時間)。

土曜日に仕事を終え(週休二日など夢のような話だった)、上野駅から夜行で青森に向い、そして青森各地で撮影を終えると再び夜行列車に乗り上野駅に戻り、早朝その足で会社に向った。眠かっただろうに若かったせいかちっとも辛いとは思わなかった(胃がキリキリと痛むのには参ったけれど)。

 

 

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鯛 島

鯛島にまつわる悲しい物語が伝わっている。村の娘と坂上田村麻呂との
恋物語である。坂上田村麻呂に捨てられた身ごもった娘が、悲しみの
余り海に身を投げ亡くなった。その娘の亡骸を島に葬ったというのだ。
それからは海が荒れ狂い、娘のたたりと恐れられたと伝わる。
島には娘を祀った神社があり、村の人々に大事にされている。 

 

 

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午後の陸奥湾

 穏やかな陸奥湾に面した道を歩いていると、善知鳥(ウトウ)だ
ろうか、海面で羽を休めている海鳥の群れがいた。黒っぽい海鳥
は人の影に驚いたのか飛び立った。九月とはいえとても暑い日だ
ったことを覚えている。

 

 

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九艘泊への道

九艘泊(くそうどまり)は昔蝦夷ばかりが住んでおり、江戸時代
後期にまだその子孫が住んでいたという記録(菅江真澄遊覧記)
が残っている。
九艘泊の名の由来は、臭い油が川を流れていたとも、伐り出され
た木材で九艘の船を造ることが出来たからとも言われている。
九艘泊は、江戸時代には陸奥湾に面した集落では最果ての地とし
て書かれている。

 

 

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九艘泊の港

ニホンザルの餌付け場からの帰途撮影。残念ながら、ニホンザルの群れには
会うことが出来なかった。鳴き声はするのだが、警戒して樹上から降りてこ
ないのだ。夕方近くだったのでサルも"家路"につくところだったのだろう。

 

 

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夕方の陸奥湾

九艘泊の山中から眺める夕方の陸奥湾である。港へ帰るのだろうか、
一艘の小舟が東へ向っていた。
※撮影年:1971

 

ふたたび東北へ
二十代前半には九州をはじめ沖縄、西日本各地を旅して歩いた。そしてまた “残り時間” が少なくなっている時期に再び東北に目が向いている。とりわけ秋田に関心がある。それは菅江真澄の影響かも知れない。

菅江真澄の名を知ったのは半世紀も前のことだ。わたしが青森県各地を巡っていた頃、地方新聞の東奥日報には囲み記事で菅江真澄の「菅江真澄遊覧記」が連載で紹介されていた欄があった。若かったわたしには、何だか難しい話だな、くらいにしか思わなかったが、どいうわけか真澄の名は片時も頭からは離れなかった。

 

 

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