chikusai diary

昭和という時代に どこででも見ることができた風景を投稿しています。

仏ヶ浦で見たものは極楽 それとも地獄?

 

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屏風岩付近

 

仏ヶ浦の奇岩は火山活動により作られ、菅江真澄も感嘆した修行の場

昭和四十年代、仏ヶ浦へ行くには脇野沢の港から小型の遊覧船に乗り平舘海峡を北上するしかなかった。海の上から東側の下北半島を眺めると、急峻な山を後ろにひかえ、所々に小さな漁村が、家々がへばりつくように建並んでいた。このような所に人が住んでいるのだろうか、と思うような場所である。道路などあるようには見えず、海路だけが交通手段のように見えたものだ。

 

 

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双鶏門付近(地獄の門?)

昔はこの仏ヶ浦で優婆塞が修行したようである。遠く恐山から山を越えここまで歩いてきたようだ。その道はとうに消えている。

 

 

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天龍岩


仏ヶ浦は南北約2㎞にわたり奇岩が立並んでおり、その異様な姿から極楽とも地獄とも言い表すことが出来る。仏ヶ浦一帯は海底火山の活動によって形作られ、長い時間風雨や波によって浸食されこの様な形になったのだろう。いずれ“ぶらタモリ”によって放映、かつ解明されることを期待したい。

 

 

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蓬莱山

 風雨により浸食された岩肌は “針の山“ のようだ。

 

 

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極楽浜(冥界への入口?)

 仏ヶ浦には冥界へ通じる道があるというのだが、短い滞在時間では発見ならず!

 

 

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如来の首

 岩の一つひとつには呼び名がある。如来の首越に蓬莱山を望む

 

 

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如来の首越に平舘海峡を望む


仏ヶ浦のある西海岸は平舘海峡に面しているので、冬季は西風が強く吹き、海は荒れて北前船などが難破しては人が流されて来たという。まだ息のある人がいても狼が来ては人を襲い、海岸には体を引きずった赤い痕跡が残っていたというから、海路は恐ろしい。

 

 

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信仰の地 仏ヶ浦(天龍岩付近)

海岸線は波に浸食されている。右端に見える先端が尖った岩は一ツ仏。古くは佐井村から山を越え、そして海岸線を歩いて仏ヶ浦に参ったという信仰の地でもある。


仏ヶ浦と菅江真澄

江戸時代の “紀行作家” 菅江真澄は、寛政四年(1792)から翌五年にかけ都合三度か四度仏ヶ浦を訪れている。近くの集落から磯伝いに徒歩で、またある時は小舟に乗りこの場所を観察し歌も詠んでいる。「仏ヶ浦という磯部の石群は、竹の子がならび生えたようなさまで、あたかも大工がけずり出したかのように、これらの岩が仏に似ていた。」と『菅江真澄遊覧記』に書いている。よほど仏ヶ浦を気に入ったと見える。

菅江真澄はこの地に二年以上滞在し、その間田名部や佐井村、脇野沢の家々に世話になっている。友人知人のつてを頼ったり、時には見ず知らずの家に一晩の宿を乞い泊まっている。意外にも、当時は困っている旅人がいると泊めていたようだ。 

 

 

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青函連絡船平舘海峡) 

二隻の青函連絡船が行きかう、今では見ることが出来ない光景である。遠くに見える山並みは津軽半島の山々(仏ヶ浦付近より撮影)。 

 

私が仏ヶ浦を訪ねたのは五十年も前のことである。中学生の頃、社会科の先生から下北半島には“恐山”や“仏ヶ浦”という場所がある、と聞いた。その異様な名に惹かれ訪れたのかもしれない。
今では周遊道路が開通し、当時とは格段に利便が良くなっているようだ。その反面、失ったものも多いはず。十代の頃に撮影したこの写真が何かの参考になるなら嬉しい。

※撮影年:1971年


 

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