この写真を見た福島菊次郎氏は「農民の顔だ、漁民の顔とはちがう」といった。
草履を供物として奉げるのは、故人が三途の川を渡るには草鞋が必要ということか。
堂内は線香の煙と参詣に集まったご婦人の熱気に圧倒される。
ご本尊の前には夥しい数の供物、堂内のいたる所には生前に亡き人が使用したであろう衣類や玩具、そして肖像などが飾られている。
それにしても山のように盛り上がった供物の多さには驚くほかはない。
津軽地方と飢饉
都での飢饉の死者数と悲惨な状態は『方丈記』でも記されているが、それに負けず劣らず津軽地方では幾たびも飢饉や疫病で多くの農民が命を落としている。当然幼い子が真っ先に犠牲になったであろう。亡き子を弔う場所が各地に残る「賽の河原」であったのだろう。
良く知られている賽の河原には、下北半島中央部にある恐山がある。ここ川倉賽の河原も半世紀前には名が知られていた。遠くは北海道、弘前、五所川原からも参詣者が訪れる。地蔵尊堂の裏手では盲目のイタコによる“口寄せ”が行われ、死者の霊を現世に呼び戻すという。
※続きます。 撮影年:昭和40年代