イタコと呼ぶ霊媒者が死者の霊を冥途から呼び出し、イタコの口を通じて語りはじめる。
あちらこちらのテントの下でイタコの口寄せが行われる。語りを聞き、しんみりとしたり、涙を流す姿が見られる。人気のあるイタコは順番待ちの時間が長い。
アットホームな雰囲気のイタコの語り口もあるようだ。「オラは冥途で元気にやっているから、オメ達も仲良くして暮らせよ」とでも言っているのだろうか。
口寄せをするイタコの口元を見つめるお婆さんの真剣な顔。
昭和初期には、五十名のイタコが川倉地蔵尊例大祭に来ていたという報道がある。私が川倉を訪れた昭和四十年代には十数名であった。今では数名ではないだろうか。
イタコには南部イタコと津軽イタコの二つの流れがあるそうだ。南部イタコ(現在、二名が活動?)の中には、高校に通いながら修行をしていたという報道もある。為り手はそういないのだろう。昔はイタコといいゴゼといい盲目の女がなったものだ。
イタコの口寄せの傍らでは、疲れたのかチョット一寝入りの参詣者。
例大祭は三日間あるので疲れる。私は向うに見えるテントの中で、イタコと二晩雑魚寝した覚えがある。一夜の泊賃が二三百円だったような。テントではイタコを仕切っているオジサンや民俗学者、旅芸人やカメラマンとも知り合えた。
何と「心療内科」の先生にカウンセリングを受けているようにも見える。
右側のご婦人が盲目のイタコである。亡くなった子ども、あるいは戦争で亡くなった夫からの便りを語っているのだろうか。現代のように「心療内科」の無かった時代、イタコとは心の病を患った人々のカウンセラーだった?
イタコの口寄せは川倉に限らず下北半島にある恐山でも知られている。実は川倉や恐山の例大祭にイタコが登場するのは、それほど古い時代ではないようだ。寛政五年(1793)六月に恐山を訪れた菅江真澄の日記には、賽の河原で泣き叫ぶ参詣客の姿はあっても、そこにはイタコの存在は記されていない。どうやら戦後にお堂の軒下で参詣者相手に「商売」し出したらしいというのだ。
またまたこんな写真が…。カメラの操作を誤り多重露光になったようだ。心霊写真では無いと思うのだが。
レンズのいたずらだろうか。
夜に入り法要もクライマックスに達し、盆踊り(津軽手踊り?)が始まった。
踊りは長い時間続く。だんだんと顔の表情も硬さがとれ、にこやかな顔になる。
「川倉地蔵講中」の役員の方だろうか、この方が音頭を取っていたような気がする。
今日はこれでお開き・・・と思いきや 。
堂内での盆踊りに物足りないのか、再び真っ暗闇の屋外で踊りの輪ができた。
爆笑だが「爆発!」と言った方がハマっている。
しつこいようだが盆踊り(の写真)はまだまだ続く。今ではこのような姿を見ることは出来ないと思うので。
喝采を浴びていた元気なお婆さん。そろそろ終いにしないと夜が明ける。
こっちでも盆踊りが始まった。 手拍子で踊りを盛り上げる。
盆踊りも最高潮に…。
真っ暗闇のなかで写真撮影をしたのはこれが初めての経験(この先二度とないだろう)だった。
菅江真澄と川倉
江戸時代の旅行家にして本草学に秀でた菅江真澄(一時期、津軽藩のお抱え医師になっている)は寛政八年(1796)六月十八日から二十日にかけ川倉に滞在している。例大祭の二日前まで川倉に滞在していたのだ。ところが川倉地蔵尊例大祭のことには一言も日記では触れていない。すぐ北にある観音様には参っているのにである。
また二十日には、地元の男に見るべきところとして「源常森」という塚を案内して貰っている。そこには「神を祀った祠…朽ちた扉や折れた鳥居の柱などが、土のなかに埋もれて残っていた。」とある。
・・・これはどういうことであろうか。
思うに菅江真澄が川倉を訪れたころは、まだ川倉地蔵尊がおかれていなかったか、「見るべきところ」と地元の人には考えられていなかった。そのいずれかではないだろうか。堂内の地蔵を調査した報告には、明治後期の地蔵が最も古い、ということから、案外近代になってから川倉地蔵尊の信仰が始まったのかもしれないと妄想しているのだが。
※撮影年月: 1972.8
金木町出身の吉幾三さんのラップ『TSUGARU』を聴いてみよう。津軽弁をどこまで分かるかな?