chikusai diary

昭和という時代に どこででも見ることができた風景を投稿しています。

陸奥に秋風の吹くにつけても “あなめ あなめ”

 

 

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小野(小町)とは言はじススキ生えけり

 

豊かな沃野・津軽野のかなたに岩木山がそびえ、流れる雲と冷涼な風が

これから訪れるであろう冬を予感させる。

 

 

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津軽野を歩いていると道端に一定の間隔をおいてお地蔵さんが

祀られていることに気づく(これは京都でもそうだけど、京都

の場合はその数はとても多い)。そして田畑の隅や真ん中あた

りに墓地というか、ただ地面に岩石が置かれているのを目にす
る。

 

 

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岩が置かれただけの墓地

 

 

天明の飢饉と菅江真澄(一部再掲)
天明五年(1785)、江戸時代の紀行作家 菅江真澄天明三年の飢饉の後に
津軽地方を旅し、見聞きしたことを『菅江真澄遊覧記』第一巻(外が浜風)
に残している。長くなるが引用したい。

"をしばらくきて浮田というところへでた。卯の木、床前(西津軽郡森田町
という村の小道をわけてくると、雪が消え残っているように、草むらに人の白
骨がたくさん乱れ散っていた。あるいは、うず高くつみ重なっている。頭骨な
どの転がっている穴ごとに、ススキやオミナエシのおいでているさまは、見る
心持がしない。「あなめあなめ」とひとりごとをいったのを、うしろの人が聞
いて、

「ごらんなさい、これはみな餓死したものの屍です。過ぐる天明三年の冬から
四年春までは、雪のなかに行き倒れたもののなかにも、まだ息のかよう者が数
知れずありました。その行き倒れ者がだんだん多くなり、重なり伏して道をふ
さぎ、往来の人は、それを踏みこえ通りましたが、夜道や夕ぐれには、あやま
って死骸の骨を踏み折ったり、腐れただれた腹などに足をふみ入れたり、その
臭い匂いをご想像なさい。

なおも助かろうとして、生きている馬をとらえ、くびに綱をつけて屋の梁にひ
きむすび、脇差、あるいは小刀を馬の腹にさして裂き殺し、したたる血をとっ
て、あれこれの草の根を煮て食ったりしました。・・・
そのようなものも食いつくしますと、自分の生んだ子、あるいは弱っている兄
弟家族、また疫病で死にそうなたくさんの人々を、まだ息の絶えないのに脇差
で刺したり、または胸のあたりを食い破って、飢えをしのぎました。人を食っ
た者はつかまって処刑されました。人肉を食ったものの眼は狼などのようにぎ
らぎらと光、馬を食った人はすべて顔色が黒く、いまも生きのびて、多く村々
にいます。」・・・

と泣きながら語って村人は去っていった。この話は真実であろうかと、過ぎ去
った日の惨状を菅江真澄は偲んだという。


 

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集落の外れに祀られたお地蔵様

 

 

 

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”「天明凶歳録」(北田一右衛門記、天明五年十二月、青森県叢書)をみても、
天明三年十月から翌四年八月までの餓死者十万二千余人、死に絶えた家三万余
軒、病死者三万余人、他国へ転退した者八万余人などとあるほどひどかった。
真澄がいったのは、それからなお一年後だったから、もっと被害数は増加して
いたろう。そしてその天明五年も、また先年におとらぬ飢饉であった。・・・
同じ青森県内でもことに津軽藩は、そば、ひえなどの雑穀の多い南部領とはち
がい、水田耕作にたよっていたせいもあって、寒冷による凶作が続き、当時、
不穏な情勢にあった。"
※内田武志氏「外が浜風」解説より

 

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撮影年:昭和40年代半ば
カメラ:ASAHI  PENTAX SL
レンズ:Super - Takumar 55mm  f1.8