chikusai diary

昭和という時代に どこででも見ることができた風景を投稿しています。

法然院に内藤湖南先生を訪ねる

 

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内藤湖南先生のこと

先日は春の彼岸ということもあり、久しぶりに鹿ケ谷に足を向け、

法然院を訪ねて湖南先生に近況を報告した。

わたしが内藤湖南という名を知ったのはいつ頃のことだろうか。

いまより、ずっと若い頃のことだと思う。名前からして幕末の学者

であろう、何故かそう思っていた。

いつ頃のことであったか、古書店である本を手にし購入した。日

の名著『内藤湖南という題である。編集者は小川環樹氏、川秀

樹博士の弟である。

  

 

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 近畿地方における神社

その本は活字が細かく、老眼の目には、いや凡人の頭には少々読み

にくかったのであるが、いくつか「目から鱗が落ちる」箇所があっ

た(小川環樹氏の巻頭文「内藤湖南の学問とその生涯」を読むだけ

でも、その本を買った価値がある)。

 

たとえば『日本文化史研究』の中の「近畿地方における神社」であ

る。神社とはどのようなものであるか、文字に残されていない歴史

は“神社”の成り立ちを調べていけば糸口がつかめる、ということな

ど。

下鴨神社の境内の隅にある柊神社(出雲井於神社)を知ってはいた

が、読後には早速下鴨神社や田中神社へ足を運んでしまったほどで

ある。加茂氏以前の京都北部の歴史を垣間見た気がして実に面白か

った(100年ほど前の講演記録であるから、現在ではもっと研究が

進んでいるはず)。 

 

 

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応仁の乱について

湖南先生は言う。今日の日本を知るために古代の歴史を研究をする

必要はない。「応仁の乱以後の歴史を知っておったらそれでたくさ

んです」と。そしてまた “下剋上” の本当の意味とは!?  

 

 

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 湖南その生い立ち

内藤湖南は慶応二年(1866)、秋田県の北部十和田湖の南の地で

生まれた。名は虎次郎。湖南は号である。父は十湾、どちらも十和

田湖にちなんでつけられた。南部藩鹿角郡毛馬内で父も祖父も儒

者であり、湖南は子どもの頃から出来の良い子どもとして近隣に知

られていたようである( かの吉田松陰は、十湾を訪ねひざを交えて

語らい、十湾はそのときの松陰の考えに敬服したという)。

 

 

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 『先哲の学問

今ではほとんど顧みられなくなった湖南先生の業績、どれか一つ著作

を紹介するとするなら『先哲の学問』であろうか。東洋史がご専門で

あるが、日本史(日本文学史)にも相当に詳しい。講演会の内容なの

で比較的読みやすい(文庫本もあるので手に入りやすい)。

湖南先生は京都大学を退官後、なにかと騒がしい京都市内を離れ京都

府南部に転居され、飽くことなく学問に精進された。だが病魔に侵さ

れ昭和九年に逝去された。

先日露伴全集を読んでいたところ、「湖南君の思ひで」という文に接

したのでここで紹介したい。

 

 

湖南君の思ひで幸田露伴 談)

内藤君の長逝は誠に惜しみても餘りがある。自分が京大の文学部へ奉職したよりは

慥か湖南君の方が聊か先であった。兎に角一年餘り同僚であったので、御尋に十分

な御答を為し得るまでゞはなくてもその人となりに就ては少しは知ってゐる。

 

第一に敬服したのは君の不断の努力精進である。終始變ることなき勉強ぶりは大し

たもので、常人の到底企及すべからざるものであった。湖南君を築き上げたものは、

とりもなほさずこの絶えざる精進努力と云ふほかはないのであった。そしてそれが

強いて自ら矯めて然様さるゝのではなく、如何にも自然に然様なのであったことは、

ほんとに粋然たる学者に生れついた人であったと云っても間違は無いと思はれた。

 

大学では東洋歴史を講じてゐたやうに思ふ。漢学の造詣は勿論深かったが、ひそか

に窺ふに世の所謂漢学者とは異なり内藤氏独自の漢学である。漢唐学でもなく、明

学でもなく、宋学でもなく、と云って訓詁派、考證派、折衷派でもない一切にわた

って一切に固執せぬ、しかも博覧達識的であった。その點がやはり偉い處であらう。

・・・(途中略)

 

湖南君は陛下御前に於て唐の杜佑の事を構ぜられたと聞いたが、あの博大精深の通

典の選者の杜佑はやがて即ち湖南君であったろう。イヤ湖南君の方が杜佑よりも一

枚上だったかも知れぬ。君の業績は世間周知の事であるが、君の遺した業績よりも

君はたしかにより大きかった人と思はれる。

 

世の中には自分の持ってゐる有り丈のものを人の前に出して示す人もある、又自分

は實は持ってをらぬものまでを自分の所有物のやうにして人に示す人もある。それ

から又自分の持ってゐるものゝ少部分だけしか示さず又終る人もある。湖南君の如

きは蓋し後者であろうかと、ひとしほ奥ゆかしく思ふ。(昭和九年九月ー露伴全集

別巻下より)