
重陽の節句を過ぎた頃、隅田川に架かる両国橋の西のあたり、広小路を散歩している夢を見た。
かつてここから北のあたりは「柳橋」といって幕末、維新後にあっても政治の中心にいた方々が
遊んだところ(夢の中で芸妓の本性をミタ!)。
あの薩長の猛者たちも柳橋で遊んでいたようだ … 名は云えないけれど。

橋の南、右へ曲がれば、下柳原同朋街がある。ここは芸者のすみか(巣窟?)。
その北に裏岸、南には広小路、そこは櫛の歯のように妓の棲む家が建並ぶ。
街には表と裏があり、繁盛する家は表にあり、逆は裏にある。その家には貧富
が色いろあるのだ。だけれど、それほどの趣はちがわない。

外に格子戸、内には長火鉢のしつらえがある。水桶は清潔でチリはない。
五徳にのる鉄瓶は黒々と照り輝いている。
昼はたいていの妓は火鉢の傍に居て、「ああ…」と大あくびをしては、
昼は居眠りをしている。おおよそ妓はみな我儘で怠け者である。断じる
が裁縫や機織りなどはできない!

弦歌をさらい、脂粉を塗るのほか、なあ~んにも出来きない。だけれども
神仏を拝むのだけは、みなよく勤めるのである。壁の上の方に棚を作って
は神棚を設けている。

妓の仏につかえるは、神につかえるより倍のように見える。…妓の家、
十のうち九はすなわち日蓮宗である。妓は日蓮をあがめることに凝り
固まっている。
それは何故かというと、平素自分のやることなすこと、嘘と欲張りな
ど罪業がとても重いことを自覚しており、それで祖師(日蓮)の力を
かりて、死後地獄に落ちることのないよう熱心に拝んでいるのである。

わたしは思う、妓の身はすなわち地獄である。これ以外に地獄というものがあるだろうか。

幸田文さんの『流れる』を読んで、柳橋を少しばかり知ったと思っていたけれど、
『柳橋新誌』の内容は、もっと生々しいなあ。
それにしても柳北先生、芸妓のことを悪く言いすぎじゃないですかね。
※おことわり
引用は、元が漢文体なので読みやすいよう現代風の表記、仮名遣いに改めています。
写真はイメージです
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【 参考文献 】
・新日本古典文学大系『江戸繫盛記 柳橋新詩』岩波書店刊