鞄一つを肩に掛け、ふらっと京都に来てから間もなく半世紀が経とうと
している。その頃のことだ、下宿先は見つけたものの、まだ勤め先は決
まっていなかったので、出費を抑えるべく毎日インスタントラーメンば
かり食べていた(たまにはハムカツを乗せて^^)。
三十三間堂に向う道すがら“わらじや”と言う店を見かけた。古臭い門構
えの店で「うぞうすい」と書いてある看板が出ていた。お腹の調子が良
くなかったので、それじゃあ「ぞうすい」でも食べようか、と思い門を
くぐると、水を打った敷石の向うには素敵な庭が見える。大衆食堂にし
ては上等なしつらえである。ありゃ場違いかな、と思って立っていたら
「ご予約していますか?」と和服姿の仲居さんが出て来て言うのだった。
話は変って、日本の家の美しさは どこにあるのだろうか。
それをを言う前に、現代の家に “美” はあるのだろうか。そんな疑問が頭に
浮ぶ。わたしの住む家を外からみても、内部を見まわしても、お世辞にも
美しいとは自信をもって言えない。
小説家の谷崎潤一郎氏は、日本家屋の "陰翳" にこだわりのある男だった。
あるとき 京都では有名な料理屋「わらんじや」へ入った。昔ながらの燭台
が電灯に代わっていたのを元通りに直させ、ひとり静かに燭台のほのかな
炎を眺めながら 酒を飲んだ。『陰翳礼讃』は そんな場での着想だろう。
「美と云うものは常に生活の実際から発達するもので、暗い部屋に住むこ
とを余儀なくされたわれわれの先祖は、いつしか陰翳のうちに美を発見し
やがては美の目的に添うように陰翳を利用するに至った。事実、日本座敷
の美は全く陰翳の濃淡に依って生れているので、それ以外に何もない。」
……『陰翳礼讃』