chikusai diary

昭和という時代に どこででも見ることができた風景を投稿しています。

縄文人の日々の生活が世界文化遺産になった?(十三湊と三内と縄文遺跡)



津軽は縄文遺跡の宝庫か!
近年、“縄文”や“土偶”をテーマとした「美術展」が多く開催展示されるようになり、
テレビや雑誌にも話題を提供している。その縄文遺跡だが亀ヶ岡遺跡、三内丸山遺
跡をはじめ青森県でたくさん発見されているのだ。

一万年前、この地方が世界で一番食べ物が豊富にあり、縄文人は豊かな生活を送っ
ていたということを想像できるだろうか。彼らは海と湖、河と山の傍らで採集、狩
り、漁労をして、定住した生活を送っていた。鮭は食べきれないほど河をさかのぼ
り、縄文人のふところに飛び込んできたのである。

ところが長い長い時をこの地で過ごしてきた縄文人が、消えてしまったようである。
ある日を境に突然いなくなった、ということだろうか。どうして消えたのかいまだ
に謎のようなのだ。遮光器土偶といい、火炎土器といい、その用途が分らず謎に満
ちているではないか。

 

 

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荒れる日本海

 

 

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十三湊

 

十三湊
右手の湖が十三湖、左手の砂防林の奥には日本海がある。画面中央に権現崎が
見える。中世には日本海を巡る船が行き交い、相当なにぎわいを見せた有数の
港(十三湊)であった。十三湊は本格的な都市設計のもとでつくられた中世都
市であるという。出土した食器には中国製、朝鮮製の白磁青磁、染付などが
あった。"遮光器土偶"で有名な亀ヶ岡遺跡は、ここより少し南にある。

 

亀ヶ岡遺跡と菅江真澄
菅江真澄は小泊から十三を通り、鰺ヶ沢に向かう。途中、堂の前と呼ばれてい
る「このあたりの土を掘ると、瓶子、小甕、小壺……むかしの土器のかたちを
した器を掘りだすことがある。それで、ふるく瓶が岡(亀ヶ岡)の名があった
……」と書き記しこの村に宿を求める。その家の主は缶(ほとぎ)の形をした
小瓶につばを吐いたという。その器こそ亀ヶ岡遺跡からの出土品であろう、と
真澄はいう。

江戸時代、すでに亀ヶ岡遺跡からの出土品は珍重され、江戸で数寄者に人気が
あったというから驚く。分る人にはわかるのである。その時代に何と海外にま
で渡っていたとか…。

後年(といっても現代の話)、考古学の研究者が『菅江真澄遊覧記』を読み、
「堂の前」という地名をたよりに地面を掘ったら遺跡が出た、という一見作り
話のような本当の話がある。


江戸時代にはすでに知られていた「三内丸山遺跡」?!
さらに『菅江真澄遊覧記』巻三の中の「すみかの山」では三内の千本桜を見に
行った折り、この地に遺跡(三内丸山遺跡のことか)があったことを日記の中
に書き残している。

その文を紹介すると「この村の古い堰の崩れたところから、縄形、布形の古い
瓦(縄文土器)、あるいは、かめのこわれたような形をしたものを発掘したと
いってあるのを見た。陶作りがここに住んでいたのであろうと言っている。

また、人の頭、仮面などのかたちをした出土品もあり、また頸鎧(みかべのよ
ろい)に似たものもあった。……このあたりはもっとも古跡にとんだところで
ある。」と。真澄が思うには、ここは天皇のような方が亡くなると埴輪を作ら
せ埋めたものであろうと。


ところで亀ヶ岡遺跡だが、昭和四十年代に何度か通ったのだが縄文遺跡にはち
っとも興味がなかったので遺跡の案内板を読んだだけで通り過ぎてしまった。
たしかすぐ近くにある中学校(?)で出土品を展示してたような覚えがあるの
だが。

※撮影年:昭和40年代半ば  カメラ:ASAHI  PENTAX SL
 レンズ:Super - Takumar 55mm  f1.8

 



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