chikusai diary

昭和という時代に どこででも見ることができた風景を投稿しています。

銀閣幻影

 

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哲学の道

家の中に閉じこもってばかりでは気が滅入るので、きれいな庭でも見ようと久しぶりに銀閣寺まで歩いて行った。

 

 

 

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銀閣寺総門

銀閣寺を訪れるのは実に三十年ぶりである。

 

 

 

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本堂

受付で「本日は貸切状態ですよ」と言われたが、本当にそんな状態だった。境内にはわたし一人しかいない。“まんぼう”の効果なのだろうか。

 

 

 

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銀沙灘越しに観音殿を望む


この銀沙灘の白川砂、いったいどこから運んだのだろうか。今から30年前、ふと疑問に思い調べたことがあります。白川砂は比叡山一帯で産出される白い砂のこと。主に雨水に混じり白川に流れ込んでいて、昔は白川上流には川沿いに採取業者がいくつもあって、建物やベルトコンベアの残骸のようなものが放置されていました。いまでもその形跡があるかもしれません。

TV番組「ブラタモリ」では池に流れ込んだ白川砂と説明していましたが、さてどうでしょうか。これほど大量の白川砂は銀閣寺の西を流れる白川でなければ採取できない気がします。
 

 

 

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花頭窓より銀沙灘を望む

この構図は皆さんの写真でよく見かける。誰しも考えることは同じみたいだ。

 

 

 

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牡丹の赤が映える

 

 

 

 

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観音殿

 義政公は観音殿の完成を見ることはなかった。

 

 

 

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東求堂


室町幕府八代将軍の足利義政公は政務を嗣子義尚に譲り、政争(応仁の乱)と日野富子から逃れるようにこの地に移る。
後の日本文化の発展に大きな影響を与えた東山文化は、この建物からはじまった。武士をはじめとして、貴族、禅僧、平民が一堂に会したようなのだ。今では一般的な“四畳半”は、この中にある同仁斎(平等という意味もある)がモデルのようだ。

 

 

 

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展望所

 この場所からは、境内を一望できるのみならず、吉田山を正面に見て、都の西部、北部を眺めることができる。そして後方には大文字山(如意ケ嶽)がある。

 

 

 

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観音殿南面より本堂を望む

 

 

 

 

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観音殿

 見ての通り銀箔は貼られていない。黒漆らしき痕跡が残る。

 

 

 

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閑散とした門前


いつもこのように静寂な環境ならよいのだけれど、いまや世界的な遺産となった銀閣寺である、“わび さび”などどこかへ飛んでいってしまった。


※カメラ:NIKON  D700  レンズ:Ai AF Micro-Nikkor 60mm f/2.8D