chikusai diary

昭和という時代に どこででも見ることができた風景を投稿しています。

貴船川に沿って花の道を歩く


昔の人はさぞかし足腰が強かったと見える。

近くて遠きもの。…思はぬはらから、親族の仲。鞍馬のつゞらをりといふ道。
遠くて近きもの。極楽。舟の道。人の仲。

清少納言は上手いことを言う(上の二行は『枕草子』からの引用)。鞍馬山(寺)のつづら折りは本堂までの距離はそう長いものではない。清少納言は洛中から鞍馬山まで歩いてきたのだろう。長谷寺まで歩いて行った(たぶん)のだから、鞍馬山なんてどうということなかったはず。それなのにつづら折りの道は遠いってか?
われ思うに、叡電貴船口から貴船神社本宮・奥宮までは、近くても遠く感ずるなあ(バスが出ているんだから乗ればいいのに)。



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貴船川の畔に咲く シャガ




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シャクナゲ(二ノ瀬)


たしか大正時代の頃だったか、志賀直哉氏が自伝的小説『暗夜行路』の中で、鞍馬の火祭を見たあと、深夜に衣笠村(金閣寺のあたり)まで徒歩で帰る描写があった。それなら往復三十キロは歩いたということだろう。彼は資産家の息子だったけど足は強かった。小さい頃から何不自由なく育ったのだろう。その反対、ワシは貧農の息子だ(関係ないか)。



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二ノ瀬 鞍馬街道


ところで ついでだから言わせてもらうと、貧しい家庭で育ったワシは乳さえろくに飲めなかった(そのせいか今でも貧弱な肉体)。母はろくなものを食べていなかったので所謂 “貧乳” だったのだ。当時のロシアの農民は東北の赤ちゃんたちはラジヲから流れて来る『貧乳に訴える』(だったかな?)を聴き、目ざめ、団結し、そして鎌餅を手にし、ムシロ旗ならぬオシメ旗を掲げて「乳よこせ」運動に立ちあがった。それは打ちこわしにまで発展し、とりわけ激烈な運動が繰り広げられたのは、津軽地方、遠野、それに某教団の影響を少なからず受けていた北陸地方であった(滅茶苦茶だ!)。これが世にいう「乳騒動」である。訴えた内容はというと…

間接税が貧しいものにとって不公平であること。それは富める者と貧しきモノが一律に粉ミルクの消費税が同じでは、収入による差が何十倍何百倍もあるのに税金はオンナジ(正月だけ出てくる「ギャラおんなじ」って芸人がいたなあ)では不公平ではないか、と言う理屈だった。
この一年コロナ禍の影響で引きこもりだったので、こんな妄想をよく見るのです。スルーしてください。



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土砂崩れの現場

水平の線に見えるのが叡電の軌道。奇跡的に一本のケヤキが山津波から助かった。復興の記念として残されたということか?



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鞍馬街道 貴船との分岐


右へ行けば鞍馬、左の道を進めば貴船(神社)にいたる。鞍馬へ通じる道は、清少納言も歩いたはず。ひょっとしたら、光源氏だってわらわやみ(マラリア)の加持祈禱のために惟光らと歩いたかもしれない。病気の時だって光源氏は女には目がない。幼かった若紫を見染めたのは鞍馬山だったみたいだし。使い走りの惟光は、さぞ忙しかったことだろう。

筆者別ブログの記事 ↓

sasurai1.hatenablog.com



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叡電貴船口

現在、駅は閉鎖されている。



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貴船




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歩いてきた貴船道を振返る



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貴船川に覆い被さるように咲くヤマブキ




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旅館街が見えるともうすぐ貴船神社本宮


※続きます