原生林を歩いて思い浮かべる文がある。少し長いが紹介してみたい。
「武蔵野に散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない。どの路でも
足の向く方へゆけば必ず其処に見るべく、聞くべく、感ずべき獲物がある。
武蔵野の美はただその縦横に通ずる数千条の路を当もなく歩くことに由て始
めて獲られる。春、夏、秋、冬、朝、昼、夕、夜、月にも、雪にも、風にも、
霧にも、霜にも、雨にも、時雨にも、ただこの路をぶらぶら歩いて思いつき
次第に右し左すれば随所に吾等を満足さするものがある。これが実に又た、
武蔵野第一の特色だろうと自分はしみじみ感じて居る。武蔵野を除いて日本
にこの様な処が何処にあるか。」…国木田独歩著『武蔵野』より。
"武蔵野"という文字を"櫛形山"と置換えてみたならどうであろうか。
サルオガセは南アルプス周辺ではよく見られる。北アルプスや西日本の山では
見た覚えがない。気温と湿度が高い山、そして日陰を好むようである。
今をさかのぼること三十年以上前のこと、北沢峠で二日間峠歩きを楽しんだ
後、自生するアヤメの群落を見てみたいと思い櫛形山に足を運んだ。当時は
登山道もあまり人の手が入っておらず、現在のように鹿よけのフェンスなど
の人工物も無く、自然に近い姿の櫛形山を十分に楽しむことができたもので
ある(今ではかつてのようにアヤメの群落は見ることが出来ないようだ。幻
のアヤメ群落を早く脱したいものだ)。
道標は少なかったので、下山中に霧に巻かれ地図に無い分れ道に出ては無駄
な時を過ごした苦い思い出もある。
私は北アルプスや南アルプス、そして北八ヶ岳や西日本の山々の樹林帯を歩
くことが多い。樹林帯を歩くことが好きなのである。とりわけ梅雨時分は好
きな季節である。大抵の人は雨は苦手だろうが、雨の降らない山歩きはつま
らない。草木の生き生きとした姿を見たければ、雨の日に限るのだ。
櫛形山に登る途中、予期せずに幸か不幸かひどい雷雨に遭遇した。避難小屋
に退避し、雷鳴が遠ざかってから趣味の写真撮影に取掛った。林床に葉を広
げるヤグルマソウの濡れた緑に心が弾んだ。アヤメ平の無限に広がるアヤメ
の群落には戸惑い、どこから手を付けてよいか分らず、めったやたらにカメ
ラのシャッターを切るばかりで手ごたえは薄かった。
私が櫛形山で一番気に入ったものは、原生林とその林床の美しさであろうか。
原生林といっても昼なお暗いイメージはなく、カラマツ、コメツガ、ダケカ
ンバの疎林が 4㎞足らずの山頂部に広がっているのだが、梅雨時分というこ
ともあり、雨、霧、木漏れ日が目まぐるしく移り変わり、眼福のひと時を味
わうことができたものである。これは梅雨時の一瞬にしか味わうことができ
ないことと思う。雨の日に足を運び運が良い者だけが経験できることだろう。
※撮影年:1980年代