今年の春は例年になくサクラの花を見て歩いた。
こんなにサクラを見、そして写真撮影をしたの
は三十年振りのことである。その理由の一つは
フルサイズのカメラを購入したことに起因して
いたことは否定できない。デジタルカメラに20
~40年前のレンズを付けて撮影した、その結果
は満足できるものではなかったけれど。
世は新型コロナウイルスの話題と外出自粛が叫
ばれて久しい。運動不足解消を兼ね、近辺を散
歩しながらの撮影なので田園や山岳を背景にし
ての風景は撮影できなかったのは心残りではあ
るが、それは来年にとっておくとしよう。
養和の飢饉と疫病
「それからまた養和年間のころだったか、もう長い年月が過ぎて、
はっきりとも記憶していないが、二年の間、世の中が飢饉と干ばつ
になって、あきれるほどひどいことがございました。あるときは、
春と夏に旱魃、あるときは、秋と冬に台風や洪水など、よくない事
がひき続いて、穀類がすべてみのらない。むだに、春は、田をすき
かえして耕し、夏には、それに田植えをする仕事ばかりして、秋に
は稲を刈りとり、冬にはそれを収納するさわぎがないのだ。
その結果として、諸国の民はあるいは、家をかえりみないで、山中
に居住する。朝廷では、各種のご祈祷が始まって、格別の行法もな
されるけれども、全然、その効果がない。都の生活の習慣として、
どの職業においても、その資源は田舎ばかりをたよりにしているの
に、まったく、都の内に入ってくる物資がないので、そうそうばか
り、平常に変らぬ体裁をとりつくろい通せようか。
がまんができかねるにしたがって、いろいろの財宝を、かたっぱし
から捨てるように売り払うけれども、全然、目をつける人がいない。
時たま、物品と交換する人は、金目の財宝を低く評価し、穀類の方
を高く評価する。乞食が道の辺に多くいて、窮状を訴えて嘆く声が
あちらこちらからも聞こえてくる。
養和二年の疫病
明くる養和二年(1182)は、もとのように回復するだろうかと思っ
ているうちに、そのうえに、流行病が加わって、いっそうひどくな
る一方で、昔の平穏な状況の痕跡もない。世間の人は、みな、流行
病にかかってしまったので、日がたつにつれて、次第にゆきづまっ
てゆく様子は、わずかしかない水に苦しむ魚のたとえによくあては
まっている。
しまいには、笠を頭につけ、足を物で覆って一通りの身なりをして
いる者が、いちずに、一軒ごとに物乞いして回っている。このよう
に、やりきれなくなって頭がおかしくなった人たちは、そこらを歩
き回るかと見ていると、すぐさま、横倒れになってしまう。土塀の
そばや道の辺りに、飢えて死ぬ類の人間は、とても数えきれない。
その死体を取り除く手段もわからぬので、死体から発する、臭いが
都の内にいっぱいひろがり、腐乱して次第に変り果ててゆく、死体
の容貌かたちは、あまりひどくて、じっと見ていられない。」
…鴨長明『方丈記』より
養和元年は、わが世の春を謳歌していた平清盛が熱病で亡くなった
年でもある。当時の人は、サクラ見物どころではなかったのだろう。
昨年、一昨年と日本列島を襲い、甚大な被害を被った自然災害、そ
して、今年は新型コロナウイルスが都市部を中心に列島を席巻して
いる。『方丈記』を読んでいると、偶然とはいえ現代と状況が似て
いるように思えてならない。