モンテーニュと吉田兼好とは、たいそうなタイトルを付けたものだ。
これだけで一冊の本が書けるだろう。今夜は二人の死生観があまり
に似通っている、ということを二人の「エセ―」から少しだけ引用
して、読者の感想を仰いでみたい。
「裁判官べビウスは哀れにも、ある訴訟に八日間の猶予
期間を与えている間に自分の寿命の期限が切れて死神に
つかまった。医者のガイウス・ユリウスも患者の眼に油
を塗ってやっているところへ、死がやってきて彼自身の
目を閉じた。
また、私事をつけ加えるならば、私の弟で二十三歳の隊
長サン・マルタンはすでに非常な勇名をはせていたが、
ポーム遊びをしている最中に、右の耳の少し上のところ
にボールを強く当てられた。しかし打撲も切傷も受けた
様子がまったくなかった。
彼はそのために坐りも休みもしなかったが、五、六時間
後にその打撃がもとで卒中で死んだ。
こういう例があまりに頻繁に、ごく普通にわれわれの目
の前に起こる以上、どうして死を考えないでいられよう
か。どうして死がいつでもわれわれの襟首をつかまえて
いると思わないでいられようか。」
…モンテーニュ『エセ―』第1巻第20章より
「生・老・病・死の移り来る事、またこれに過ぎたり、
四季はなほ定まれるついであり。死期はついでを待たず。
死は前よりしも来らず、かねて後ろに迫れり。
人皆死ある事を知りて、待つこと、しかも急ならざるに、
覚えして来る。
沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるがごとし。」
すでに書かれていた。