chikusai diary

昭和という時代に どこででも見ることができた風景を投稿しています。

家路 ー 津軽地方と菅江真澄、それにイザベラ・バードのこと

 

 

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家路と旅路
わたしが津軽平野を彷徨したのは昭和四十年代半ば(1970年代)だった。わずか二年ほどだった。それよりおおよそ百八十余年前の天明四年(1784~)から、四十五年間を旅に人生を送った人物がいた。その人の名は菅江真澄。偶然ではあったが、その人の歩いた道(津軽半島下北半島)を後を追うように わたしも歩いていたことを後になって知った。それは『菅江真澄遊覧記』を読んだことによるものだ。

そして二年前には宮城県岩手県秋田県の一部を菅江真澄の足跡を追い、その一部をブログで紹介した。これまでに複数のブログで真澄を紹介し数年が経つ。
真澄は本草家であったが歌人でもあった。この歌人であったということが、けっこう旅をするには都合が良かったみたいで、当時蝦夷地(松前)に渡る際、誰でも渡航できないはずなのに、真澄の歌が松前藩主の母君の目にとまり上陸を許されたという話が「遊覧記」に書かれている。

真澄の生まれる百十年前には俳諧宗匠 松尾芭蕉(1644~)が生まれている。この人も旅に生き、旅に生を終えることを考えていた人である。そしてこの二人の先人には西行がいた。
芭蕉と真澄は俳諧宗匠歌人という違いはあるけれど、どちらも「歌枕」を追っていたので旅路は重複している。だけど どういう訳か真澄は芭蕉西行のことを一言も「遊覧記」に記していない。元禄時代の有名人(東北から近畿地方まで名は知れ渡っていた)だった芭蕉のことを知らないはずはないと思うのだが、江戸時代の文化が最盛期だった天明時代には、すでに芭蕉は「過去の人」だったということだろうか。

そしてまた、ここが実に面白いことなのだが、真澄が秋田で亡くなってから半世紀後に今度は英国人女性の地理学者・冒険家・紀行作家・写真家(肩書たくさんあるし!)であるイザベラ・バードが明治十一年(1878)に日本を訪れて真澄や芭蕉のあとを追いかけるように日本海側を通って北海道に渡っている。真澄同様アイヌ民族に関心を寄せていたんだとか。

伊藤という通訳兼ガイドを一人雇ってはいたけど、当時の道路事情を考えてみると死を覚悟するような旅路だったようだ。バードの残した『日本奥地紀行』には、明治初めのころの日本が描かれて(大型カメラで撮影後模写した絵もある)いて大変興味深い。なかでも子どもの皮膚病のこと、農民がどのような家に住んでいたか、馬で旅をする際に蹄にすぐ破けるワラジを着けること(当時日本では馬の蹄に蹄鉄を打つ習慣がなかったようなのだ)に疑問を投げかけていたことなど、日本を学ぶには真澄の本同様とても面白い本だ。
日本民俗学の祖(おや)と呼ばれる柳田国男は、菅江真澄イザベラ・バードの研究者であるというのはけして偶然ではない。ついでながら、イザベラ・バードは わたしが定年まで働いていた職場に立寄っていた(百年以上前のことだけどね)ということを『日本奥地紀行』を読んで知った。



 

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稲わらを積み家路につく


昭和40年頃のレンズは、逆光で撮影するとゴーストやフレアーがよく出たものだ。今の時代、それが面白いのか「銘玉」ともてはやされることがある。今でも当時撮影で使ったカメラとレンズは持っているけど、棚の奥の方で三十年は眠りについている。

撮影年:昭和40年代半ば
カメラ:ASAHI  PENTAX SL
レンズ:Super - Takumar 55mm  f1.8

 

 

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津軽平野に陽はまた昇る

 

 

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ちょうど今頃の時節だろうか、津軽平野を縦横に歩いていると夫婦や親子で働いている姿をよく見かけたものだ。まれに数人の集団を見ることがあったので撮影の際に話をすることがあった。すると北海道から出稼ぎに来ている、という青年がいた。今撮った写真が欲しいというので、大分後になってから送ってやった覚えがある。
青森県は出稼ぎ者の多い県だったが、秋の農繁期の時期には他府県から この地に出稼ぎに来る人がいることを知った。

 

 

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脱穀風景

 

 

 

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野焼き

 

 

 

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日没風景