chikusai diary

昭和という時代に どこででも見ることができた風景を投稿しています。

川倉地蔵尊例大祭 — 賽の河原で亡き子を偲ぶ

 

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卒塔婆に供物を奉げる

 地蔵尊堂の外には多くの卒塔婆や後生車が建っている。 

 

 

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賽の河原で供物を奉げる

 参詣者からお布施をいただく僧侶姿の者がいる。

 

 

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賽の河原を急いでどこへ行く?

 この近くに、飢饉で行き倒れになった者を葬る「イゴク穴」と呼ぶ穴があったそうな。

 

 

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賽の河原を歩くお婆さん(風体から ただならぬ気配を感じた)

 

 

 

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お地蔵さんを拝むお婆さん。隣にいるのはお孫さんだろうか。写真を撮らせてとお願いしたら、顔を覆っていた手ぬぐいを頭の上に上げ、顔を見えるようにしてくれた。 

 

 

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卒塔婆の前には山のような供物

 

 

 

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 ストロボ無しで撮影するとこんな感じ。 

 

 

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夜のとばりが降りてからも参詣者は途切れない

 暑い日中を避けてか、あるいは農作業を終えてからお参りに来るのだろうか。 

 

 

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夜遅くに賽の河原へ向う

 

 

 

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賽の河原へ向かう三人のお婆さん(後ろ姿が印象的だった)。背負った荷物は沢山の供物なのだろうか。遠方から来る参詣者のために境内には宿泊できるテントもあるので、二三日分の食料と着替えかもしれない(私も二晩泊りました)。 

 

 

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神妙な面持ちで死者の声を聞く

イタコと呼ぶ霊媒者が死者の霊を冥途から呼び出す(イタコの口を通じて語りはじめる。) 

 

 

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深夜までつづくイタコの “口寄せ” 

 

 

 

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深夜の地蔵尊堂には訪れる人もなく、係員の姿だけがあった

 

 

川倉地蔵尊堂とは
津軽地方では、子どもが亡くなると地蔵を集落や村にある「賽の河原」やお堂に祀る風習があるという。集落の外れには、必ずといってよいほど小さな祠があり、お地蔵さんが祀られている。京都にも町内のいたる所に地蔵は祀られているが、川倉ほど一カ所にまとまって祀られている場所を知らない。化野念仏寺にも石仏は多く祀られてはいるが、あれは後の時代に一カ所に集められたもの。

川倉地蔵尊堂内の地蔵を調査した記録がある。それによると一番古いものでも明治後期の作だという。そんなに古い時代の地蔵は無かったようなのだ。とすれば明治期に入ってからの死者を祀っていることになる。ひょっとして日清戦争日露戦争、「太平洋戦争」で無くなった方々を祀っているということなのだろうか。
戊辰戦争で亡くなった方々を祀ったのが靖国神社とするなら、こちらは近代の戦、あるいは病で亡くなった家族を祀るところなのかもしれない。
※撮影年:昭和40年代

 



次回最終回は、イタコの “口寄せ” 百態(?)と祭のクライマックスである「婆ア爆発」・狂喜乱舞! を掲載予定です。乞うご期待!? 


それでは長山洋子さんの津軽『じょんから女節』をお聴きください。 

  

 

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