言うまでもなく、平安時代の天皇は一夫多妻制である。特にその初期には后の数は非常に多かったようだ。『源氏物語』が書かれた一条天皇の時代には定子さまと彰子さまという二人の后がいた。定子さまには、清少納言(枕草子の作者)、そして彰子さまには紫式部(源氏物語の作者)が女房として天皇をひきつけるサロンをつくっていた、と思われる。そのアイテムのひとつが文学作品として今に伝わっていると言えばいいのかもしれない。
一条天皇(20歳)が心から愛する定子さま23歳、そこに入内してきた、時の最高権力者藤原道長の娘彰子はまだ12歳だった。だが定子の実家は没落。天皇が円滑に政治を執り行うには貴族たちの後ろ盾が必要だ。
そんな後宮の雰囲気を紫式部は『源氏物語』の中で次のように描いている…
「 桐 壺 」(イケズに遭う桐壺の更衣)より
" いつ頃の御代(みよ)のことであったか、女御や更衣が大勢祇候(しこう)してをられる中に、非常に高貴な家柄の出と云ふのではないが、すぐれて御寵愛を蒙っていらっしゃるお方があった。
最初から自分こそはと思ひ上っていらしった方々は、その様子に眼を見張って、悪口を云ったり嫉んだりされたが、 ましてそのお人と同じほど、 又はそれより低い位置にある更衣たちなどは、快く思ふ筈がなかった。…… "
長いのでちょっとだけ…。物語の初めからこうである。まるで紫式部は一条天皇の後宮の様子をそのまんま『源氏物語』に記録しておいたようにも見えるのだ。わたしには、定子さまは光源氏の母である桐壺更衣に置き換えられているように見える。さしずめ一条天皇は桐壺帝かな。
さて天皇はどちらの后へ通ったのだろうか。う~ん悩ましい…(って、わたしが悩んでも ^^;)。
で、嵯峨天皇の(786ー842)御時には、名前が判明するだけでも二十九人もの后がいたらしい(誰ですか「うらやましい」なんて思った人は…)。嵯峨天皇は優れた跡継ぎを残すためもあって、男子二十二人の親王、女子二十七人の内親王が居られた。
ちなみに『源氏物語』の中で光源氏の若い頃からの遊び友だちだった頭中将(内大臣)には、あちこち(!)に合わせて十人のお子がいたみたいだ。また光源氏には葵上(頭中将の妹)とのあいだに夕霧が、そして藤壺宮とのあいだには後に帝になられる方がいた。
北風がまだまだ老体に堪えるある日のこと、嵯峨野を散策してみっか、なんて思い立って半日ばかり広沢池から大覚寺あたりを歩いてみた。そこで目にした嵯峨天皇が「譲位後に高雅な上皇生活を送った」という嵯峨野の風景を嵯峨天皇陵とともに紹介してみたい。
大覚寺は平安時代のはじめ、嵯峨天皇の離宮として建てられたのがはじまり。
渡月橋を真っすぐ北へ上がるとこの寺にあたる。
紫の上は内心知っていただろうに…。
もしかしたら、この場所が明石の君の住む山里の家のモデルだったのだろうか。それでは大堰川から少々離れているけど … 妄想が膨らむなぁ(笑)
嵯峨天皇の御子で左大臣・源融(みなもとのとおる)の山荘・棲霞観がこの地にあった。没後に御堂が建てられたようだ。